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我が人生、我が事業

写真:川嵜 修

掲載号:商工ジャーナル 7月号(2020年)第1回(3回連載)
当時の記事をそのまま掲載しています。

川嵜 修

株式会社東研サーモテック相談役
株式会社東研ホールディングス代表取締役社長
一般社団法人日本金属熱処理工業会顧問(元会長)

写真:連続ガス浸炭炉連続ガス浸炭炉

株式会社東研サーモテックは、1909(明治42)年に大阪で創業された熱処理のパイオニアだ。現在は熱処理専業の会社としては国内最大手の一つで、国際化にも先駆的に取り組んできた。私は当社で50年余り熱処理に携わり、新規事業の立ち上げや海外展開に苦心し、「途中であきらめず、成功するまでやり続けること」の大切さを学んだ。アパルトヘイトと闘った南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラ氏の名言の一つに、「何事も成功するまでは不可能に思えるものだ」というのがある。私が学んだのも、まさにこのことであった。

熱処理専業者の事業基盤を築いた父

当社の起源は、1909年に木村延一(のぶいち)と筒井保太郎(ほたろう)が創業した木村鋼化工場にある。木村は滋賀県の農家の生まれで、神奈川県の横須賀海軍工廠(こうしょう)に入って職工として働いた。その後、広島県の呉(くれ)海軍工廠に移って筒井と出会い、二人で大阪府東成(ひがしなり)郡中本町(現大阪市東成区)に金属熱処理の専門工場を立ち上げたのである。

写真:父・川嵜玉男 父・川嵜玉男

1928年、筒井が経営から引退して木村の単独経営となり、社名を木村硬化研究所に変更した。しかし、翌年木村が急死し、木村の妻ムツと筒井信市(しんいち)(保太郎の甥・養子で、社員川嵜貢(みつぐ)の実兄)が代表者となり、本社・工場を東成区勝山通に移して、社名も東洋金属熱処理研究所に改めた。貢の弟五男(いつお)、玉男(私の父)が入社し、川嵜三兄弟が熱処理に関わることになった。

1934年、三兄弟が独立して大阪市西淀川区に東洋熱錬工業所を設立した。その後、東洋金属熱処理研究所が経営危機に陥り、吸収合併する形で1935年に東洋金属熱錬工業所が発足した。1937年の日中戦争勃発で、貢と五男が相次いで出征し、20歳の父が会社を率いた。1939年に会社は再分割され、株式会社東洋金属熱処理研究所(現株式会社東研サーモテック)と㈱東洋金属熱錬工業所(現株式会社TONEZ(トーネツ))となった。

当社の初代社長は、保太郎の弟小林力松で、この年に杭全(くまた)工場(大阪市東住吉区)を開設した。自転車部品や機械、工具などの民需品を熱処理加工していたが、戦時で十分な操業ができず、東洋金属熱錬工業所が受注した軍需品の熱処理加工を手伝った。その後、東洋金属熱錬工業所社長の貢が当社社長を兼務し、父が工場長を務めた。

大阪大空襲での工場被災を免れた当社は、終戦の翌年2月に操業を再開し、1948年に父が社長に就いた。父は技術屋で、営業はナンバー2の幹部に任せていた。熱処理には電力やガスなどのエネルギーが重要だが、終戦直後はいずれも安定供給されず、石炭に頼った。1950年代初頭、ガスの供給制限が緩和され、停電も少なくなり、熱処理業界の戦後も終わることになった。

1958年には、「ジュニア」という愛称のガス浸炭・雰囲気炉を他社に先駆けて導入した。これは品質向上と作業環境の改善につながった。その後、液体浸炭炉の設置を契機に工程の自動化設備などを自社で開発した。これらは「自社開発の設備を持つことが、競争に勝つ決め手になる」という父の考えに基づき取り組んだものだ。

1950年代後半からの高度経済成長期には自動車、精密機械の部品などの熱処理需要が急増した。その頃、父は欧米業界の視察団に参加し、その成果を生かし巽(たつみ)工場(大阪市生野区)を1960年に開設。アメリカに一歩でも近づけようとガス浸炭炉ほか最新鋭設備を導入した。さらに寝屋川工場(大阪府寝屋川市)を1964年に開設し、生産規模を拡大した。父はこれらの設備投資を通じて当社の道筋を定め事業基盤を築いた。

大学で経営工学を専攻、「技術のわかる経営者」へ

父は、1943(昭和18)年に千鶴子(ちづこ)と結婚し、大阪府豊中市の借家に新居を構えた。1945年6月に長男の私が誕生し、その2年後に次男栄次郎、4年後に三男潤三、1954年に長女幸子が生まれた。

1952年、栄次郎が当時流行していた小児麻痺(ポリオ)で亡くなった。その年のお盆に、母が私たち男の子三人を連れて故郷へ墓参りに行った。大阪から汽車で尾道へ行き、お墓のある島まで巡航船に乗った。船内は超満員だったが、島に着くたびに人が降り、畳敷きの席が空いたので栄次郎が座った。隣りによだれをたらしたポリオの子がいて、その子から感染したらしい。大阪に帰ると高熱が出てポリオと診断され、2週間ほどで死んだ。父は自責の念をずっと引きずり、名刺入れには栄次郎の写真をずっと入れていた。

父は、工場がある東住吉まで通っていた。入手難の石炭が入ると、炉の火を落とせないため2昼夜、3昼夜連続操業する。その間は家に帰れないが、家に電話がないので連絡はない。家庭サービスとは無縁だったが、父が帰ってきた晩は、家族全員で丸い卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでご飯を食べた。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のようだった。

父は器用で、卓袱台の傷などは自分でかんなをかけニスを塗って直した。母は明るく常に前向きな人だった。次男を亡くしてつらかったはずだが、そういうことは表に出さなかった。私のあまりくよくよしない楽天的な性格は、母の影響かもしれない。

豊中では、友達と野球をよくやった。クリスマスの日の朝、枕元に左きき用グローブが置いてあって嬉しかった。6年生のとき、家族で大阪市住吉区に引っ越し、市立依羅(よさみ)小学校に転校した。そこを卒業し、阿倍野区の市立文の里(ふみのさと)中学校に通った。大阪一のマンモス中学校で、秀才もワルもいた。

高校ではクラブ活動を楽しむつもりだったが、私が入った府立今宮高校は、市内4番目の旧制中学校であり有数の進学校で、そんな雰囲気ではない。担任も「クラブ活動の時間があるなら勉強せんか」という人で、これに反発して遊んでばかりいた。その頃、父から「お前は跡取りなのだから、そのつもりでいろ」と言われた。私は、「技術のわかる経営者」になろうと、大阪府立大学工学部経営工学科に入学した。

大学では水泳部に入った。新入部員は7、8人いて、高校時代からの経験者と、私のような未経験者が半々だった。部室の壁に部員の種目別タイムが貼ってあり、自己新のタイムが出ると、日の丸の旗をさす。私は、決められた練習を手を抜かずに一生懸命にやった。すると、毎週のように自己新を更新し、2年生のときにはメドレーリレーの平泳ぎのレギュラーに選ばれた。みんなから「お前は不思議な男や」と言われた。

水泳部には「泊まり」という制度がある。暑い夜は、涼みがてらフェンスを乗りこえてプールで泳ごうとする人がいる。事故があったら大変なので、部室に泊まって見張った。先輩と後輩がペアで泊まるので、いろいろな人の話が聞けた。地方出身の奨学生の先輩と一緒になったことがある。合宿費なども奨学金から出していた。私は親に言えば出してもらえた。自分にとっての当たり前が、実は当たり前ではないと学んだ。

水泳部の顧問の大垣昌夫先生の存在も大きかった。自分の研究はそっちのけで、毎日プールに来る熱心な先生だった。千恵子との結婚式の仲人もやってもらった。

大学時代、一生懸命努力をすれば報われることを体験し、先輩・後輩、先生と親しくつき合った。中味の濃い4年間であり、私の原点の一つになった。2017年、府立大学の公開講座に招かれ、「東研サーモテックの事業展開と海外戦略」と題した講演を行った。たいへん光栄であった。

一工員として勤務後、新工場立ち上げに携わる

1969(昭和44)年に大学を卒業し、当社に入社した。熱処理関連の海外視察で欧米と日本の技術水準や職場環境の差を思い知らされ、向こうの豊かな生活を実感し、カルチャーショックを受けた。

帰国後、本社総務部で担当したコンピュータ導入が軌道に乗った後、当社で付加価値を生む熱処理の現場を知ろうと主力工場である寝屋川工場のガス浸炭の仕事に2年近く従事した。この仕事は昼夜二交代制の12時間勤務で、炉内は800~900度あり、ひどく暑い。月・火・水曜は元気でも、週末の金・土曜にはへたってくる。「オレは人の寝ている間も仕事をしているぞ」と、夜勤明けの朝5時頃太陽が昇るのを見て、何ともいえない爽快感を味わった。

木造モルタル2階建てのアパートの部屋を寮として借りており、私もそこに住んだ。隣りの和歌山出身の同い年の社員と親しくなり、一緒に旅行に行ったりした。これらの経験を通じて「もっと作業環境を改善しなければ」、現場の苦労を知り「賃金をもっとちゃんと払えるようにしよう」との思いが強くなった。これも私の原点である。

1973年の名張工場(三重県名張市)新設に際しては建設時から現地に張り付き、竣工後は工場2階の寄宿舎に2年近く住んだ。地元の人を採用して研修を行っていたが、炉のトラブルで夜中によく起こされ、3、4時間かけて直すことを繰り返した。

その年末からの第一次オイルショックで、売上がピーク時の四割減となり、1976年には設立以来初の営業赤字を計上したが、幸い土地の売却で経常赤字は回避できた。当時、夜勤の従業員から「夜中の2時、3時に社長が工場に来ている」と聞いた。眠れない中で、工場の見回りで気持ちが前向きになると思ったのだろう。後年、「あの時が一番苦しい時期だった」と言っていた。

若い頃、父から「熱処理は産業の基盤となる技術で、絶対にすたれない」と聞かされた。鉄の加工で熱を扱う仕事に、鋳造(ちゅうぞう)、鍛造(たんぞう)、熱処理の3つがある。鋳造と熱間鍛造は材料を自分のところで持っていて、製品にして売る。これに対し、熱処理は受託したら加工してお客様にお返しするので、サービス業という要素も大きい。また、熱処理がうまくいっているかどうかは、外観からは見えない。プロセスの保証が重要で、熱処理の理屈を理解していなければならないと同時に、勘や経験といった非常にアナログの部分がある。新規参入は難しいので、熱処理を極めていけば、この世から鉄・鋼がなくならない限り、産業界から消えてなくなることはない。その意味で、熱処理という仕事は恵まれていると思う。(つづく)

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