2020年10月掲載
※掲載当時の内容をそのまま掲載しております。

ユース会会員経営者が語る 私の承継ユース会会員経営者が語る 私の承継

江川哲生

株式会社ライフサポート・エガワ代表取締役社長
商中本店ユース会代表幹事

事業承継をめぐる困難を乗り越え、
物流業界のイメージ刷新を目指す

株式会社ライフサポート・エガワ(東京・足立区)は、関東全域に物流拠点を展開し、物流業界初の共同配送事業を実現。そのノウハウを全国輸送に応用した広域輸送事業で大手コンビニ菓子部門の一次輸送の7割を引き受け、さらに3PLなど最先端のサービスも開拓してきた。江川哲生社長は創業者の次男だが、創業者急逝後の困難を乗り越えて創業家の2代目として社長に就任。試練を肥やしに、父が目指した「物流を通じて人々の生活と命を支える」という理念を引き継ぎ、物流業界のイメージ刷新に邁進する。

PROFILE

写真:江川哲生氏

江川哲生えがわのりお

1972(昭和47)年、埼玉県川口市生まれ(48 歳)。91 年、高知県にある明徳義塾高校を卒業。95 年、大同工業大学(現大同大学)工学部建設工学科を卒業し、埼玉建興㈱に入社。98 年、同社を退社し、父・博氏が社長を務める江川運送㈱(2000 年に㈱ライフサポート・エガワに改称)に入社。01 年、常務取締役就任、03 年、博社長の死去に伴い、代表権を持つ常務取締役。06 年、前社長が退陣、代表取締役CEO に就任し、現在に至る。19 年、埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士課程前期単位取得・満期退学。12 年、商中本店ユース会代表幹事就任。

後継者になるつもりなく、父に呼び戻される

―社長就任は入社8年目の2006年ですが、お父様の後を継がれたわけではないのですね。

江川
父はその3年前の2003年に突然、病死しました。生前に当時の副社長に社長を譲っていました。私はその後を継いだ形です。父が急死してからの数年間は身内、社内ともに大変で、その意味では得難い経験をさせてもらいました。

哲生氏の父・博氏は1960年、個人商店として事業を始め、62年には㈲江川運送店を設立。当初は東京神田青果市場の取次などを行い、食品の運送を軸に事業を拡大。65年には江川運送㈱となり、68年には第1号倉庫を開設して「総合物流」への事業拡大に舵を切った。70年代から大手菓子メーカーの輸送を請け負うと同時に、不特定多数の荷を積み合わせる路線事業も行い、これが後に同社が業界に先駆けて共同配送事業を生み出すきっかけになった。 同社の丁寧な仕事ぶりを認めた大手コンビニ問屋が、他の菓子メーカーにも「江川を」と声掛けし、90年から業界初の共同配送がスタート。同社の発展とともに、物流全体の合理化・コスト削減に多大な貢献をすることとなった。

―後を継ぐことは頭になかったとか。

江川
13歳上の兄がいたのです。自分は小学校4年生の時から野球にのめり込み、「それなら明徳へ行け」と父に言われ、中学・高校の6年間を四国で過ごしました。明徳義塾は親元を離れて通う生徒が多く、そのほとんどが学校で寮生活を送ります。 野球はけがで断念しましたが、家業のことは兄もいるので、名古屋の大学の建築学科に行きました。卒業と同時に、実家の地元、埼玉のゼネコンに就職しました。 そこでは、道の駅関連の建築現場に毎夜9時、10時まで勤務しました。名前は現場監督ですが、周りは気の荒い者が多く、最初はベテラン職人に小間使いのように使われていました。石の上にも三年で、数百人の職人を束ねて工程管理をするまでになりました。父に「帰ってこい」と言われたのは、仕事が面白くなってきた頃でした。

―98年に入社して担当した仕事は?

江川
当時、財務の担当者がすぐ辞めるので困っていました。上役の専務が厳しかったせいですが、私が数理好きだからと担当させられました。伝票書きから資金繰り表の作成まで経理の仕事を叩き込まれましたが、数理好きと経理は別物で、慣れない仕事と叱責でストレス性の急性難聴になりました。でも「一人前の金庫番に!」と言われて3年間頑張り、TKCの紙の伝票を使う会計から会計ソフト(勘定奉行)への変更を任され、完了させました。 財務の仕事に悩んで父の友人に相談したこともありましたが、「江川家に生まれた運命だ」と諭され、それで割り切れて肩の力が抜けました。お陰で今ではPLやBSを見るのが大好きで、財務は得意分野です。

創業者の急逝で一時的に社内が混乱

―入社時の業況はどうでしたか?

江川
関東全域に物流センターを持ち、年商90億円以上、利益もまずまずで、業況は悪くなかったです。会社は家庭的な雰囲気で、私は学生のころからバイトでトラックの助手や荷の仕分けなどを手伝っていたので顔見知りも多く、前職で中高年の先輩たちに鍛えられたのも役立ちました。

―会社の課題は何かありましたか?

江川
正直なところ、兄との関係はしっくりしませんでした。兄はカンボジアでボランティアに参加した後、会社がカナダのバンクーバーに所有する別荘の管理人を務めていましたが、92年に母が亡くなったのを機に帰国し、当社で営業やシステム開発などを担当しました。頭は良い人なので、旧態依然とした組織やシステムに不満だったのでしょう。「海外では……」といった調子で次々改革を試み、古参幹部とぶつかっていたところに、私が入社したのです。

―外部から人を招いたのは、お父様が?

江川
ええ。2001年に兄の教育係も兼ねて大手運送会社の元専務を副社長として招き、その半年後には社長を譲り、自分は会長になりました。その翌年に胃がんを発症、手術したものの転移がひどく1年もたずに死去しました。

―創業者の突然の死去で、さぞ混乱したことでしょう。

江川
まず相続で苦労しました。父は兄と姉には現預金と不動産を分与し、会社(自社株)は私に譲ると遺言しました。兄はこれに不満でしたが、最終的には兄の持つ自社株も私が買うことになり、兄は退職しました。次に苦労したのは前社長との関係です。父の死後、前社長との間に溝ができ、経営方針にもずれが出てくるようになりました。これでは社内のまとまりが保てないとの危機感がありました。

業界のイメージアップに向け先頭に立つ

―そんな事態をどう打開しましたか?

江川
3年近くそんな状態でしたが、当時の財務担当の取締役が「哲生がトップに立つのが筋だ」と言って、応援してくれました。私の持株は3割強でしたが、過半数を保有すべく動きました。鍵になったのが、私を鍛えてくれた財務の上司だった元役員で、2割の株を持っていました。この株を譲ってもらい、50%以上の株を持つに至りました。私は、前社長には退陣をお願いしました。もともと父と彼との約束は5年間でしたので、「お引き取り願いたい」と話し、最終的には承諾してもらいました。

―2006年に社長に就任され、トップに立った印象はいかがでしたか?

江川
父は凄いなと思いましたね。1億、2億の借入の印鑑を初めて押すときは、私は手が震えました。それまで借入の書類は何度も作っていましたが、保証の印を押すトップはまったく違うのだと分かりました。父は臆せず借金をして倉庫を造り、事業を拡張してきたのです。度胸の据わった大きさを改めて感じました。

―就任後、新しく挑戦したことは?

江川
まず取り組んだのは、社内をまとめることです。当時、前社長と一緒に中途入社した社員が二、三十人おり、自分たちの処遇に不安を感じていました。彼らも含めて全員で頑張ろうとの思いを全社員に伝え、ほとんどの方に残っていただけました。 それから社員が誇りに思える会社づくりに取り組みました。私は子供の頃から運送屋の息子としてコンプレックスを感じていました。昔のドライバーには柄の悪い人もいて、家に遊びに来た友達から「江川の家は遊ぶには広くていいけれど、怖い人が多いな」と言われ、傷つくこともありました。だから「怖い、汚い、危険」という業界イメージを変えたかったのです。 そこで、まずユニフォームを刷新しました。当時運送業界のユニフォームは黒か紺が定番でしたが、清潔感のある白を基調とするものに変えました。

写真:同社のトラック 同社のトラック

―若手人材の採用・育成にも注力されたとのことですね。

江川
人材の採用と育成には最大の力を注ぎました。当時、物流会社には若い人、特に大卒は入社しないと皆が思っていました。そこで13年から大学生向け企業説明会に参加し、自分のビジョンを自分の言葉で伝えました。そうすると14年には大卒ドライバーが8名も入社してくれました。トップ自らが会社の強み、会社への愛情、将来のビジョンを訴え、多くの学生に届いたのです。 そして入社した人材をしっかり育てるため立ち上げたのが「エガワアカデミー」です。思いを共有する社員を専任トレーナーとして社内選抜し、1年かけて新入社員ドライバーの教育を行うことを始めました。 現場の中堅やベテランの受け止め方も変わりました。最初は皆、新人大卒ドライバーに戸惑っていましたが、実際に働いてみると、生産性は高く質も高い。今では現場のベテランが新人入社を毎年楽しみにしています。現在30名以上の大卒ドライバーが大きな戦力として頑張ってくれています。 もう一つ、若手社員教育で特徴的なのは「農業研修」です。15年からスタートしました。新入社員全員で秋田に行き、初夏の田植え、秋の稲刈りを行います。互いに支え合う仲間がいることを感じる良い機会で、若手の定着につながっています。 これには続きがありまして、収穫したお米を当社のお客様へのお歳暮にしています。新入社員が米作りに参加した写真とメッセージを添えて送っており、お客様からも好評です。「若い社員の育成に一生懸命取り組むエガワさんであれば、安定して長く仕事を任せられる」と感じていただけるようです。 さらに、社会貢献の一環として先代の時代から福祉施設支援を行っており、できたお米をお菓子と梱包して、施設に毎年お届けしています。施設には、障害があり十分に話ができない方もいらっしゃるのですが、そのような方々が懸命に大きな声で謝意を示してくれる。それを体験した社員は、ものをお届けする物流という仕事の重要性を真に実感し、やる気につながっています。 総合職も含めると、この6年で約100名の大卒を採用し、社員の約4割が20代から30代。業界では異例だそうです。

写真:農業研修の様子 農業研修の様子

大震災で腑に落ちた社名に込めた父の思い

―後継者として、どんな使命感を?

江川
「社長の限界が会社の限界」という思いがあります。自分の成長が会社の成長につながり、社員を豊かにできると考え、常に勉強し続けなければならないと思っています。最近ではご縁があって埼玉大学の大学院で経営学を学ぶ機会をいただきました。社員もそのような自分の姿を見てくれていると思います。「この会社では社長が頑張って勉強しているから将来も安心だ」と感じてくれていれば嬉しいですね。 現社名は父がまだ社長だった時につけたもので、当初「生命保険会社ですか?」と聞かれたりして、私は正直、ピンときませんでした。ところが2011年の東日本大震災のとき、当社はひたすら支援物資を運び続け、仙台の仲間が「エガワが命を支えてくれた」とSNSに書き込んでくれました。これで「物流を通じて人々の生活と命を支える」という父の考えが解り、社名が初めて腑ふに落ちました。

―現在のコロナ禍でも、同じ精神で取り組まれているのですね。

江川
その通りです。「ステイホーム」も物流があってこそ。物流の重要性と使命感を社員全員がひしひしと感じて日々頑張ってくれています。当社の経営理念は「物流の改革に挑戦する」「最大より最良をめざす」「企業の正道を歩む」の三つで、すべての行動の原点はここにあります。これを大事にしながら、社会と社員の「ライフサポート」を一層高めていく決意です。

次々と試練にぶつかりながらも、その一つ一つをモノにして自分の財産にしてきた感がある哲生社長。「悩む暇はなく、経験が肥やしになった」と振り返り、「業界のイメージ刷新の先頭に立ちたい」と話す。2代目ではあるが、創業者的なたくましさと自信を感じた。

商工研客員研究員 橋本裕之

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